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NFTという名の鏡――デジタルな荒野に咲いた、承認と所有の蜃気楼

序章:デジタルデータが「聖遺物」になった時代

2021年から2022年にかけて世界を巻き込んだNFTブームという熱狂は、単に新しいテクノロジーの流行や、一部の投機家たちによるマネーゲームとして語るだけでは、その本質を見誤るだろう。それは、私たちの社会が抱えるより根源的な「飢餓」と、価値そのものの拠り所が揺らぐ時代に生きる私たちの「不安」が、ブロックチェーンという名の鏡に映し出された、巨大な社会現象に他ならなかった。

これまで、無限に複製可能(コピー&ペースト)であることが宿命づけられていたデジタルデータ。その無重力な存在に、なぜ私たちは突如として「唯一性」という重力を与え、数億円もの貨幣価値を見出すに至ったのか。それは、まるで中世の人々が聖人の遺骨、すなわち「聖遺物」に奇跡の力を信じたように、実体のないものに「本物」としてのオーラを渇望した、現代の病理の表れといえる。パンデミックが物理的な接触を希薄にし、金融緩和によって行き場を失った貨幣がデジタルの荒野を彷徨う――その特異な時空間で、NFTは時代の要請に応えるかのようにして、その輝きを放ち始めたのだ。


第一章:「所有」の再発明と、資本主義の最終フロンティア

現代社会において、「所有」という概念そのものが変容しつつあったことは、この現象の前提として見過ごせない。音楽も映画も、かつてのように物理的な円盤を「所有」するのではなく、サブスクリプションサービスを通じてアクセス権を一時的に得る「利用」へと移行した。あらゆるものがクラウド上に浮遊し、手触りを失っていく世界。その中で、私たちは無意識のうちに**「確かに自分のものだ」と断言できる確かな感覚**に飢えていた。

NFTは、その飢餓感に対して、極めて巧妙な解答を提示した。ブロックチェーン上に刻まれる、改竄不可能な取引記録。それは、国家や企業といった中央集権的な管理者を介さずとも、「あなただけのもの」であることを全世界に証明する、新しい時代の鑑定書であり、所有証明書であった。これは、「所有」という古来の概念の、デジタルネイティブ世代による再発明だったのである。

そして、この発明は、資本主義の論理とも完全に合致した。地球上のあらゆる土地や資源が商品化され、人間の労働力すら切り売りされる後期資本主義社会において、最後に残された未開拓のフロンティア――それが、デジタル空間という無限の荒野であった。NFTは、このフロンティアに杭を打ち、これまで価値の計測が不可能だったデジタルな創造物、ミーム、コミュニティへの参加権といった無形の概念に値札を付け、新たな市場を創出するための完璧な道具立てとなったのだ。暗号資産という、既存の金融システムから半ば独立した血液が、この新しい経済圏の隅々にまで行き渡り、その熱狂を加速させた。


第二章:承認の飢餓と「PFP」という名の仮面

しかし、NFTブームを単なる経済現象としてのみ捉えるならば、その爆発的なエネルギーの源泉を見失うだろう。なぜなら、この熱狂の渦の中心にいたのは、機関投資家だけではなく、名もなき幾多の個人だったからだ。特に、Twitterなどのアイコンとして使われた「PFP(プロフィール・ピクチャー)」と呼ばれるNFT群の流行は、この現象の社会心理学的な側面を雄弁に物語っている。

CryptoPunksやBored Ape Yacht Clubといった高額なPFPを所有し、自らのアイコンに設定する行為。それは、単なる画像の表示ではない。それは、「私はこの新しい世界の住人である」「私にはこれを所有できるだけの資本と感度がある」という、極めて強力な自己顕示であり、社会的シグナリングであった。現実社会における学歴や職歴、家柄といった旧来のヒエラルキーとは異なる、デジタル空間における新たな階級章。それを手に入れることで、人々は一夜にして「何者か」になることができたのだ。

これは、現代に蔓延する「承認の飢餓」と深く結びついている。SNSの「いいね」の数に一喜一憂し、常に他者からの評価に晒される私たちは、より安定し、揺るぎないアイデンティティの拠り所を求めている。PFPは、高額な入場料と引き換えに、排他的で強固なコミュニティへの参加権を与え、無条件の仲間意識を提供する「仮面」として機能した。その仮面をつけることで、現実の自分がいかなる存在であろうと、デジタル空間では特別な一人として承認される。その甘美な誘惑こそが、多くの人々を惹きつけた根源的な引力であった。


第三章:コミュニティという名の共同幻想

PFPの流行は、必然的に「コミュニティ」の形成を促した。同じNFTコレクションの所有者たちがDiscordサーバーに集い、独自の言語やミームを共有し、連帯感を育んでいく。彼らは自らを「家族(fam)」と呼び合い、「WAGMI(We're All Gonna Make It / 我々は皆成功する)」という呪文を唱えながら、プロジェクトの価値を高めるために団結した。

だが、その「共同体」とは、いかなる性質のものだったのか。それは、地縁や血縁によって結ばれた前近代的な共同体とは、根本的に異なる。参加は任意であり、離脱も自由。その繋がりを担保しているのは、共通の文化や理念というよりも、所有するNFTの市場価値が維持・向上するという、極めて現実的な利害関心であった。それは、同じ夢、あるいは同じ幻想を共有することで成り立つ、脆くもしたたかな「共同幻想」だったのである。

この共同幻想は、従来の株式会社のモデルとも類似しつつ、より流動的で、参加者の熱量をダイレクトに価値へと転換する新しい組織形態の萌芽を示唆していた。しかし同時に、その熱狂が冷め、市場価値が下落すれば、共同体そのものもまた霧散しかねないという危うさを常に内包していた。それは、刹那的な繋がりを求めざるを得ない、現代人の人間関係のあり方を象徴しているかのようでもあった。


終章:熱狂の後に残されたもの――私たちは何を所有したかったのか

NFTの熱狂は過ぎ去った。しかし、それが暴き出した問題は、今もなお私たちの社会に横たわっている。そして、AIの台頭は、その問いをさらに先鋭化させる。

NFTという鏡が打ち砕かれた今、私たちはAIという、より強力で、より実用的な道具を手にした。しかし、その根底にある欲望は地続きだ。価値の尺度が揺らぎ、確かな「所有」の実感を失い、他者からの「承認」に飢えている。私たちは、テクノロジーの熱狂の果てに、どのような繋がりを求め、何を「価値」と信じるのか。

私たちが本当に所有したかったのは、ただのJPEGデータではなかったはずだ。それは、変化の激しい世界の中で、揺らぐことのない自己のアイデンティティであり、孤独な魂が帰属できる「居場所」であり、そして未来は良くなると信じられる、ささやかな希望の物語だったのではないか。

AIがどれほど進化しようとも、この根源的な問いに答えを与えることはないだろう。その答えは、テクノロジーの向こう側で、私たち自身が見つけ出す以外にないのだから。


地方創生とブロックチェーンの活用について議論されている、この動画が参考になるかもしれません。

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Panda

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