a couple of leaves that are on a tree

エッセイ 雑記

愛は語らない

言葉にして、日頃の感謝を伝えたり、行為を通して思いを示すことは、確かに人と人との関係を深めるうえで重要な手段である。言葉は心を開き、行動は信頼を築く。だが、人間とは不思議なもので、そうした明示的な表現がなくとも、確かに「愛」が存在していることを、私たちはどこか魂の奥で理解している。それは、語られない愛——沈黙の中に息づく、静かな思いの形だ。

例えば、母が毎朝黙って用意してくれるお弁当。父が何も言わずに車で迎えに来てくれる夜。友人がそっと肩を叩いてくれる瞬間。それらは、言葉にされることなく、しかし確かに「愛」として心に届く。語られない愛は、静かに、しかし深く、私たちの内側に染み込んでいく。言葉がなくても、行動がなくても、そこには確かな温もりがある。

今、あなたが誰かに伝えたい言葉があったとして、それをなぜか形や行為に出来ない場合、それは語らない愛なのだ。心の中にあるその思いは、無理に言葉にする必要はない。語らない愛は、無理に語るべきではない。なぜなら、それは語られないからこそ、純粋で、壊れにくく、深く根を張るものだからだ。言葉にすれば誤解されるかもしれない。行動にすれば重荷になるかもしれない。だからこそ、語らない愛は、そっと胸の奥にしまっておくことで、より強く、より優しく、相手に届くことがある。

言葉は時に誤解を生む。意図しない表現が相手を傷つけることもある。だが、語られない愛は、行動や空気の中に溶け込み、誤解の余地が少ない。目に見えないからこそ、感じ取る力が試される。沈黙の中にある優しさ、距離の中にある思いやり。それらを察することができるのは、人間が持つ感受性の賜物だ。語られない愛は、言葉の限界を超えて、存在そのものが語る愛だ。視線、仕草、時間の使い方。それらが語る愛は、時に言葉以上に雄弁である。

語られない愛は、時に切なく、時にもどかしい。けれど、それは決して弱いものではない。むしろ、語られないからこそ、私たちはそれを探し、感じ、確かめようとする。その過程で、人は他者と深くつながり、自分自身の内面とも向き合う。語られない愛は、静かに、しかし確かに、私たちを育てている。

愛は語らない。語らない愛は、言葉にしなくても、行動にしなくても、確かにそこにある。それは、目に見えないけれど、心に触れる。耳に届かないけれど、胸に響く。そして何より、語られないからこそ、私たちはその存在を信じ、尊び、大切にしようとするのだ。

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Panda

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