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【東北旅行記】震災から14年、被災地を訪れて。~誰かが伝え続けなければ、そこになかったことになってしまう~

2025年の夏、8月3日から5日にかけて、両親に誘われて東北を旅してきました。今回の旅の目的は、東日本大震災の被災地に点在する「震災遺構」を巡ること。ずっと訪れたいと思いながら、中々機会を作れずにいた場所でした。

14年の時を経て、被災地の今

今回2泊3日の工程で訪れたのは、仙台市から南三陸町にかけて点在する、6つの地域の震災遺構です。

震災から14年という月日が流れた被災地の姿は、訪れた市町村の規模や立地、そして受けた被害の状況によって全く異なり、復興のあり方にも大きな地域差があることを肌で感じました。

津波によって全てが流された場所に、高く土を盛り、新たな街の土台が築かれている地域。広大な土地が更地のまま広がり、かつての賑わいを想像することすら難しい地域。

しかし、いずれの場所にも共通して言えたのは、以前そこにあったはずの街並みが消え去り、誰も住んでいない土地が広がっているという現実でした。

一方で、そこには決して悲観的な光景だけが広がっているわけではありません。場所によっては真新しい家々が建てられ、人々が新たな生活を営んでいます。利便性や経済という観点で見れば、未来へ向けた前向きな歩みも確かに感じられました。

東日本大震災について

内閣府:防災情報について

私たちが訪れた震災遺構

今回、私たちは以下の震災遺構を訪れました。

  1. 仙台市:荒浜小学校
  2. 東松島市:野蒜駅
  3. 石巻市:門脇小学校
  4. 女川町:女川交番
  5. 石巻市:大川小学校
  6. 南三陸町:戸倉小学校、髙野会館、南三陸防災対策庁舎

「震災遺構」とは、大規模な災害によって被災した建物を、その被害の状況や教訓を後世に伝えるために保存しているものです。静かに佇む校舎や交番は、その傷跡を生々しく見せながら、私たちに多くのことを語りかけてきました。

①仙台市:荒浜小学校

仙台市の中心部から海沿いに行ったところにあるのが、荒浜小学校です。仙台平野の広々とした地域です。一帯は住宅地でしたが津波に飲み込まれ多くの住民の方が犠牲になりました。荒浜小学校は2階部分まで水没し、先生や生徒たちは屋上に避難して助かりました。二回のベランダの壁を破壊し、入り込んできた津波の威力を物語っています。

教職員や生徒は屋上に逃げて助かりましたが、一帯が水没したため、多くの犠牲者が発生しました。

②東松島市:野蒜駅

もう使われていない駅のホームですが、まだ電車が走ってきそうな雰囲気も残っており、ノスタルジーを感じました。
資料館にはガラスに入った千羽鶴の美しいオブジェクトがありました。

③石巻市:門脇小学校

門脇小学校は、生生しさもありながら、美術館のような美しさを感じさせるディスプレイが印象的でした。しかし、そこには目を引くような学芸員さんの言葉とともに飾られ、私たちに鮮烈な印象をもたらしました。

施設で最初に入る体育館で飛び込んでくる、消防車と乗用車が津波の威力を示しています。

④女川町:女川交番

小さな港町で、一体は壊滅的な被害をうけました。復興後は高台に居住区を配置し、中心部の商業区と明確にわけることで、コンパクトにまとまった美しい港町になりました。観光に力を入れている様子で、一見すると、災害があったとは到底思えない美しい街並みですが、港近くまで歩いていくと、目の前に女川交番が現れ、確かにこの場所で大津波が発生したことを物語っていました。

女川駅から海へと続く商業区域、ハマテラスには地元産のカキや牛タン、ハンバーガーなどが食べられます。私が注文した女川チーズバーガーは、地元産のスーパーサーモンを使ったパテにたっぷりのチーズがトッピングされ食欲を刺激します。セットでは食べきれないほどのポテトとドリンクが付いて、880円とお得感がありました。

片岡鶴太郎さんデザインの壁画も印象的でした。

④石巻市:大川小学校

川の方面に逃げた74名の生徒と10名の教員が津波の犠牲になってしまいました。非常に悲しい事態を引き起こしたと管理者責任を問われ石巻市と遺族の間で裁判に発展しました。裁判の結果、石巻市に損害賠償が命じられました。

しかし生き残った若者の一人が、大川小学校を震災遺構にするべきという活動を行い、震災以降になりました。この場所でなぜ犠牲者が出てしまったのか、同じ事態を繰り返さないためにはどのような対策を講じるべきか私たちに考えるきっかけを与えてくれる場所となったのです。

起こってしまった悲劇を嘆くよりも、そこから何を学び、起こりえる危機に準備を行うか、という視点が重要なのだと気づかされました。

⑤南三陸町:戸倉小学校、髙野会館、南三陸防災対策庁舎

最後に訪れたのは、南三陸町でした。

「語り部」から受け取った、忘れられない言葉

今回の旅で、何よりも心に深く刻まれたのは「語り部」をされている方々との出会いでした。

石巻市の大川小学校震災遺構施設で副館長を務める遠藤さん。そして、南三陸の美しい景色と震災の記憶をバスで巡りながら伝えてくださった、南三陸ホテル観洋のスタッフ小野寺さん。

お二人の言葉は、ご自身の壮絶な経験に裏打ちされた重みを持ちながらも、決して悲しみだけを伝えるものではありませんでした。そこには、未来へつなぐための強い意志と、訪れる私たちへの温かい想いが込められていました。

特に、藤澤さんの言葉で、胸に突き刺さった言葉があります。

「誰かが伝え続けなければ、始めからそこになかったことになってしまう」

この言葉を聞いたとき、ハッとさせられました。風化とは、単に記憶が薄れることではない。その土地で起きた出来事、人々の営み、そして失われた命、その全てが「存在しなかった」ことにされてしまう、ということなのだと。

なぜ、今だったのか

東日本大震災が起きた2011年、私は大学を卒業し、社会人としての一歩を踏み出した年でした。正直に言えば、そこからの数年間は個人的にも非常に苦しい時期が続き、目の前のことに精一杯で、被災地に想いを馳せる精神的な余裕がありませんでした。

今回、旅に誘ってくれた両親は、阪神淡路大震災の被災経験者です。私自身、当時は神戸市に住んでいて小学一年生でした。 地震が起きた時、母は妹を身ごもっており、地震から1ヶ月後の2月に出産しました。言わずもがな震災は両親の人生観に大きな影響を与え、それは巡り巡って私の生い立ちにも深く関わっていると感じます。

偶然にも大学一年生の時、所属していた劇団サークルで、神戸出身の先輩が書いた阪神淡路大震災をテーマにした舞台の主役に抜擢されました。被災経験を持つ主人公を演じた経験は、私の価値観に大きな影響を与えました。

こうした経験がありながらも、東北へ向かう機会を作れずにいた私に、両親が「震災やその復興に関心を持ってほしい」と背中を押してくれたことで、ようやくこの旅が実現しました。企画をしてくれた父と母には、心から感謝しています。

14年という時を経て、ようやく被災地を訪れることができたのは、私にとって非常に大きな意味がありました。

日程の都合で今回は訪れることのできなかった被災地も数多く存在します。私もまた機会を作って、足を運んでみたいと思います。

もし、この記事を読んでくださっている方で、まだ東北の被災地を訪れたことがない方がいらっしゃれば、ぜひ一度足を運んでみることをお勧めします。

そして、もし機会があれば、ぜひ「語り部」の方のお話を直接聞いてみてください。映像や文章だけでは決して感じることのできない、大切な何かをきっと受け取ることができるはずです。

私たちにできることは何か?

次に巨大地震が起こるのは明日かもしれない、数十年後かもしれない。過去の大災害の教訓を活かし、いつか来るその時に向けて、一人一人が危機感を持ち、備えることだけなのです。

  • この記事を書いた人

Panda

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