「ガラスの動物園」という演劇作品がある。
この物語の登場人物たちは、それぞれの現実に耐えながら、まだ見ぬ未来の幸せを夢見ている。
母は娘のために「紳士の訪問者」を待ち、娘はガラス細工の小さな世界に閉じこもり、弟は自由を求めながらも家族を見捨てることに罪悪感を抱えている。
しかし、彼らの「いつか」は決して訪れない。
夢見た未来は、幻想のまま霧散する。
この作品を思い出すたびに、私は考える。
「私たちは、いつまで『いつか』を待ち続けるのだろう」と。
「いつか仕事が落ち着いたら」「いつか余裕ができたら」「いつか夢が叶ったら」——
そんなふうに未来に期待しながら、今という瞬間を後回しにしてしまうことはないだろうか。
だが、本当に幸せを手にするためには、未来ではなく「今」に目を向けるしかない。
未来のために今を犠牲にするのではなく、今、この瞬間に小さな幸せを見つけること。
遠い理想を追い求めるのではなく、今ここにある温もりを感じること。
待ち続けるのではなく、自ら手を伸ばすこと。
幸せになるなら、今しかない。
「いつか」を理由にして立ち止まるのではなく、今できることを大切にして生きていきたい。
たとえ、未来が不確かでも。
たとえ、思い描いた形でなくても。
私たちは「今」という時間の中でしか、本当の幸せを感じることはできないのだから。
あえて「諦める」ということ
では具体的にどうすべきか。それは簡単なことではない。しかし、「諦める」という行為が1つの解となる可能性について考えたい。
「諦める」という言葉には、どこか後ろ向きな響きがある。
努力を放棄すること、夢を手放すこと、未練を残したまま立ち去ること。
しかし、本当にそうだろうか。
仏教には「諦観(たいかん)」という言葉がある。
それは「物事をありのままに見つめ、悟ること」という意味だ。
つまり、「諦める」とは、ただ投げ出すのではなく、執着を手放し、本当に必要なものを見極めることなのかもしれない。
たとえば、「いつか幸せになる」と願い続けることで、今この瞬間の幸せを見失ってはいないか。
たとえば、「もっと完璧にならなければ」と努力を続けることで、自分を苦しめてはいないか。
たとえば、「あの人に認められたい」と焦ることで、自分の本当の価値を見誤ってはいないか。
諦めることで見えてくるものがある。
「いつか」を待つのではなく、「今」を生きる。
他人の期待に応えるのではなく、自分の心に正直でいる。
執着を手放すことで、初めて自由になれる。
「諦める」とは、決して敗北ではない。
それは、新しい道を選ぶ勇気でもある。
不要なものを手放すことで、今、本当に大切なものが浮かび上がるのだ。
だからこそ、何を諦め、何を選び取るのか。
それを決めることが、私たちにとって最も重要なことなのではないだろうか。
選択に結果を求めないという選択
少なくとも私たち人類は、行動や結果という概念を持ち、そこに意味を見出そうとする存在である。
私たちは日々、何かを選び、何かを捨てる。その選択の積み重ねが人生を形作る。しかし、その選択が正しかったのか、間違っていたのかを確かめる術はない。なぜなら、どんな選択も、それをした時点では一つの可能性に過ぎず、時間の流れの中で意味づけられていくからだ。
例えば、ゴッホが死後に評価されたように、ゴッホは自らが評価されていることを知らない。
生存期間中は、希望よりも絶望が勝り、最後は自死を選んだのだと考えられる。
彼の絵が後世に多大な影響を与えたことは事実である一方で、やはり死後の評価はゴッホ自身に真の幸せをもたらしたとは思えない。
ある選択がある瞬間には後悔の念を生み、別の瞬間には安堵をもたらすかもしれない。逆に、成功したと思った決断が、時間の経過とともに新たな葛藤を生むこともある。つまり、結果とは固定されたものではなく、私たちの認識や時間の流れによって変容するものなのだ。
それでも、私たちは選び続ける。選び続けることでしか生きることはできない。
行動の積み重ねが未来を形作るのだとすれば、選択そのものを放棄することは、自ら未来を閉ざすことに等しいのかもしれない。
しかし、ここで一つ考えてみたいのは、「結果を求めることを放棄する」という選択肢の存在である。
とにかく結果を放棄し、今目の前のことに丁寧に没頭するのだ。
行動の因果関係を明確にし、努力の末に報われる未来を思い描くことは、私たちの希望であり、同時に呪縛でもある。
結果を追い求めるあまり、今この瞬間の価値を見失ってしまうこともある。
だからこそ、結果に縛られず、今という時間を丁寧に生きることもまた、一つの選択肢ではないだろうか。
未来を夢見るのではなく、過去を振り返るのでもなく、ただ「今」に集中すること。
それは、幸せを先延ばしにしないための、小さな覚悟なのかもしれない。
だから、幸せになるなら今しかない。
だからこそ、私たちは何を選び、何を手放すのか。
その問いを抱えながら、それでも歩み続けるのだ。
光あるうちに光の中を歩め
トルストイは、『光あるうちに光の中を歩め』の中で、水車の比喩を用いて幸福についてこう語っている。
「水車が回るのは、川の流れがあるからだ。
もし水車が止まれば、川の流れもそれを動かすことはできない。
人生も同じで、行動しなければ幸福は訪れない。」
私たちはしばしば、「いつか幸せになれる」と思いながら、その「いつか」を待ち続けてしまう。
しかし、幸福は待つものではなく、流れる水のように、今この瞬間の行動の中にこそ存在する。
水車が止まれば、どれほど水が流れても意味がないように、
私たちが動かなければ、どれほど時間が過ぎても幸福は訪れない。
幸せになるなら今しかない。
だからこそ、光のあるうちに、光の中を歩もう。